櫻井あづさプロフィール

 

東京都世田谷区出身。

4歳からピアノを始める。

 

玉川学園高等部卒業。

18歳より恩師でもある故岸川基彦史のもと、ピアノ演奏と子どもへの導入指導、絶対音感指導を学びその実践を始める。

 

玉川大学文学部教育学科小学校専攻卒業。(文学士取得、小学校指導者資格一級面許取得)

 

 玉川大学卒業後、アメリカNY州のIthaca College 音楽学部ピアノ演奏科に学費免除の奨学金特待生として学士入学。

(マグナクムラウデ賞付きで音楽学士/BM取得)

 

Ithaca College在学中は、故マリアン=コバート女史他教授たちのもと演奏への研鑽を積みながら、スズキメソード、ダルクローズリトミックなど幅広い実践活動を行う。

 

Ithaca College大学院に全学費免除の奨学特待生として進学し, 優秀賞付きで音楽修士MM取得。

数々の名誉特賞を受賞。(ファイキャッパファイ、ファイキャッパラムダ等)

 

大学院在学中は、グループピアノクラスや個別レッスンをティーチングアシスタントとして指導。

併せて伴奏活動、スズキメソードを基盤としたアメリカ人児童の指導を実践。

 

大学院卒業後は、イサカカレッジ音楽学部の非常勤講師に就任。

 

在学中に実践していたグループピアノクラスの継続の指導に携わりながら、

音楽学部の専属伴奏者として多くの学生の伴奏を実践。

 

またスズキメソードで地元アメリカ人の児童指導を継続。

 

 

演奏関連

 

1982年、1986年、1989年「協奏曲の夕べ」にて東京交響楽団と共演。

 

1988年、Ithaca College学内協奏曲コンクールで優勝。

 

1989年、優勝者記念コンサートにて、同大学オーケストラと共演。

 

1989年、スタンフォード大学大学院、 夏季プログラムにて デジタル音楽&MIDIコースに参加。

 

NYにて1987年、1989年、1990年、ピアノソロリサイタル開催、

 

大学院卒業後もアメリカ、日本を中心にソロ活動、伴奏、室内楽を実践。

 

 

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1993年結婚を機に日本に帰国。

 

東京都中野区にて、ピアノ教室「SAPS: 櫻井あづさピアノスタジオ」を開設。

 

「ミュージックキーピアノ指導システム」を基盤としたピアノ導入指導を実践中。

 

チェロとピアノのアンサンブルグループ「Jess&AZ」を結成し、

幼稚園など教育機関での演奏活動を実践中。

 

2011年に発足された「新渡戸文化学園アフタースクール」にて、個別ピアノ指導を始める。

 

2013年より中野区社会福祉協議会「さくらサロン」スタッフとして、一人住まいの高齢者の集いを自宅にて月一回主宰。

ご高齢者参加者へのピアノ演奏披露、歌の会などを主宰。

 

 

2014年8月、ダルクローズ=リトミック国際大会にて、英語での同時通訳者として活躍。

 

その他、音楽関連の英語通訳を単発で行う。

(リズムの森、ミュージックマインドゲームズ他)

 

2019年9月、NY州, Ithaca Collegeにて開催された「MACメモリアルコンサート」にてソロ演奏披露。

 

2020年4月から、同学園の子ども園にて年長と年中のグループピアノクラスも受け持つ。

 

2023年3月、新渡戸文化学園アフタースクール退職。

 

2024年~ 日本ジャックダルクローズ協会理事就任。

 

 

 

これまでにピアノを故岸川基彦氏、故マリアン=コバート女史、中原淳子女史、フィロース=メイタ史、他に師事。 

 

ダルクローズ・リトミックをジャック=ダルクローズリトミックをジャック=スティーブンソン氏、馬淵明彦氏他に師事。

 

 

 

 現在の肩書と資格

・櫻井あづさピアノスタジオ、主宰

・ミュージックキーピアノ指導システム、上級認定指導者(全国7人目)

・ミュージックキーピアノ指導システム、認定指導者

・PTNA(ピティナ) 全日本ピアノ指導者協会指導者会員、

・ミュージックキー表参道支部、副代表

・ミュージックキー東京支部、会員

・日本ジャックダルクローズ協会、理事

・ダルクローズ=リトミック教育指導研究会(ARP)、会員

・日本聖公会讃美歌作曲者登録。讃美歌283番「いとしいおさなご」作曲提供

・小学校一級免許保持

 

 

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櫻井あづさのピアノにかける思い;

~ピアノを始めた4歳から現在に至るまで~

 

 

【ピアノを始めたきっかけ】 

 

私が生まれた時代では、「4歳になったら娘にピアノを習わせる」ということが母親たちにとって憧れやステータスでした。私が4歳になった時、母親はピアノを購入し、私を近所の音大生のところに連れて行きました。その先生は年齢が若いこともあり、幼児の扱いがやや不慣れで私の指導をすることが難しかったらしく、そこでのレッスンは数回で終了になりました。その頃私の母親は3つ違いの双子の弟たちの育児、また5つ違いの弟の妊娠という状況で非常に忙しく、私のピアノレッスンは暫く中断することになりました。

 

 

【幼稚園でのピアノレッスン】

 

年中で幼稚園に入るとそこには課外保育として「ピアノレッスン」という習い事がありました。5歳の頃、私にはすでに3人の弟がいましたので、こちらの幼稚園の課外保育の中でピアノのレッスンを受けることができ、さらに長時間預かってもらえたことは、私の親にとっては大変ありがたかったそうです。

 

この幼稚園のピアノレッスンスタイルはホールに受講生全員が座り、一人ずつ順番に数分間個別レッスンを受けるスタイルでした。 レッスンの順番は通常、お母様方のお迎えが来る順番で決められていました。私はいつも最後の数人のグループに属していたようです。お友達の曲を聴きながら長い間順番を待つことは嫌いではなかったようで、実際にはそれを楽しんでいたことを覚えています。他の子が演奏している曲を何度も聴くことができ、それが私にはとって楽しい時間でした。他の子が演奏している曲をすっかり覚えててしまうことがよくありました。

 

私の両親は音楽は好きでしたが、ピアノは弾けません。育児に忙しく練習中に横に一緒にいて見守る、また何かを教えてくれることは全くありませんでした。私は家では全くピアノの練習をしないひどい生徒だったようです。練習を全くしてないのに曲が弾けてしまうちゃっかりした子どもでしたが、それがピアノに興味を持つきっかけとなりました。

 

毎日親と一緒に音感の訓練を受けたわけではありませんが、不思議なことに5歳の頃にはすでに絶対音感が備わっていました。他の子の演奏やピアノの音を聴きながら、音の高いさや音程を感じることができ、耳にする音楽を即弾いたり、色々なメロディーをドレミで歌うことができていました。

 

 

【幼少期の私】

 

音楽好きな両親は、ある時ステレオを買ってきました。そのころ流行っていた「ダークダックス」が歌っている童謡曲のレコードが私のお気に入りでした。毎日時間さえあればステレオの前に子ども椅子をおいてずっと聴いていました。それらの曲は全てドレミで記憶されていたようで、自分が大好きだった曲を沢山聞くことで私の音感はより身に付いたと思います。今でも自分の中にダークダックスの歌声やその頃の情景が記憶に残っています。

 

 

【小学校のソルフェージュレッスン】

 

小学校に入学してから、私は友人の家に来ていた、桐朋音大を卒業した若い先生からピアノを習い始めました。その先生はとても厳しく、怖い表情をしていて、今でもその印象が私の心に残っています。 それも当然のことでした。 なぜなら、私はまったく練習をしない、そしてレッスン中もやる気がないひどい生徒だったからです。 先生もきっと悩んでいたことでしょう。さらに、母親は育児や弟の重度の気管支喘息の世話に多忙で、私のピアノの練習に付き添うどころではありませんでした。

 

しばらくして、一緒に習っていた友人がピアノをやめて、私はその友人の先生の少し遠いご自宅(所要時間60分くらい)に通うことになりました。併せて先生の教室で同学年の「ソルフェージュのグループレッスン」にも参加することになりました。そのクラスの生徒たちは、将来桐朋音楽大学への進学を目指す予備軍の子どもたちでした。 彼らは小さい頃からトレーニングを受けていて、とても意識が高い友人たちでした。今でもはっきりと覚えていますが、友人たちは聴超えてくる沢山の音をあっという間にスラスラと書き、当時、凄いというより恐ろしいと思いました。同時に私はやっていることが高度すぎて理解できず、劣等感にさいなまれていました。少しでもまねてみようと適当に音符を書いては叱られるという状況でした。

 

グループには私以外5人ほど生徒がいましたが、当然ながら出来の悪い私と仲良くなりたいと思う友人にもいませんでした。そこでは1年ほど我慢しながら参加していました。進学塾に通い始めたこともあり、5年生になると私はピアノへの興味も失っていたのでピアノを辞めることにしました。今当時を振り返ってみて、精神的に非常に混乱した辛い嫌な思い出がたくさんあります。

その一つに繰り返し行われていた大嫌いな「全調カデンツァ」の転調・書き取りや、和声音の動きや聴音の学習などがあります。しかしながら、これは今の自分の音楽形成に大きく影響していると感じています。特にそれまで頭の中でドレミと聞こえるだけだったものが、譜面上で音符の「ドレミ」という形になって脳に刻まれたことは、私の音楽理解力の向上に非常に役立ちました。その先生の指導の厳しさは当時は辛かったですが、今では非常に感謝していますし、その先生の厳しい指導によって私の音楽的な基礎がしっかりできていると思っています。当時は教育は厳しいものが当たり前、弾けるまで弾き続けることが当たり前でしたので、現代のように褒めて育てるというわけでは全くなかったと思います。

 

 

【素敵な恩師との出会い】

 

小学校高学年の時は受験勉強のためピアノは一時中断していました。志望の中学校は不合格。ピアノも全く再開する気がなかったそんな時、母親が新しいピアノの先生、中原淳子先生を見つけてきてくれました。中原先生は弟の幼稚園のママ友の妹さんで、たまたま母がそのママ友とスーパーで出会った時に思い出して相談をしたそうです。

 

初めてのレッスンで、「一曲弾いてみて!」と言われ、私はバッハのインベンション1番を暗譜でマシンガンのように弾いたそうで、「あまりにひどいインベンションで驚いた!」と、後に先生に思い出話として伺いました。そして「大変な生徒が来たな、困ったな~」と思われたそうです。先生は音大卒ではありませんが、私の次の恩師となるクロイツァーの孫弟子の大先生の元でずっと研鑽を積んでいた先生でした。 当時はまだ30歳くらいで若く、私個人を尊重して会話をしてくれる、一緒にいてとても楽しい方でした。 毎回、先生に会いに行くことが私の唯一の楽しみでした。 当時の私は思春期や反抗期で、誰とでもフレンドリーに話すことができませんでしたが、この先生には心を開いていたことを覚えています。

 

先生は時間があると、いつも色々な素敵な曲を聴かせてくれました。 先生の演奏する「ショパン」はとても刺激的で、ショパンの曲をもらった時は家に帰ってすぐに練習を始めたことを覚えています。「次はこれが弾けるかな~」「楽しみだね~」と、私の期待を高めてくれる素晴らしい声かけ上手な先生でした。先生に嫌われないようにしよう!がっかりさせてはいけない!と思い、この頃から真剣に練習するようになりました。

 

 

【岸川基彦先生との出会い、そしてクロイツァーとのつながり」

 

私が中学3年生の時、大好きな中原先生が大きな交通事故に巻き込まれ、重傷を負いました。 先生がレッスンに復帰できるまでの間、中原先生の恩師である岸川基彦先生の教室に通いました。それまでも中原先生の生徒は岸川先生の発表会に出演させてもらっていたので、その時は初対面ではありませんでした。日頃から中原先生は岸川先生に私への指導のアドバイスをもらっていたようで、岸川先生の教室に伺った際には「久しぶりだね」という感じで受け入れていただきました。

 

岸川基彦先生の先生は「及田光吉」といい、「絶対音感」という概念を日本に広めた非常に有名な方です。及田先生は戦前にヨーロッパに留学しクロイツァーに師事していました。クロイツァーが訪問した際には、資産家の岸川先生のお宅に滞在していたようで、岸川先生は直接クロイツァーからピアノの指導を受けていました。 私のレッスンでも、岸川先生は度々「クロイツァーはこう弾いていたよ」とよくおっしゃっていたことを記憶しています。

 

私が大学生(18歳)になった頃、知り合いの子供たちにピアノを教えることになり、岸川先生と及田先生が考案した「絶対音感」の指導法を教えていただく機会が訪れました。大学生の間の4年間、実際に岸川先生のご指導のもとで幼児と小学生の生徒達を指導させてもらえたことは、今の私の指導の基盤となっています。

 

 

 

【恩師の素晴らしいこだわり】

 

岸川先生の門下生は、関東地域から集まった優秀な生徒たちばかりで、本当にレベルが高かったことを覚えています。年に4回開催される発表会の演目は常に音大レベルの難しさでした。先生は常に一流を目指し、教室にはスタンウェイのフルコンサートピアノを2台備え、頻繁に調律を入れ、ご自身も調律をするというほど音の品質にこだわっていました。

 

発表会は当時有名だった日比谷の「第一生命ホール」でしか行わず、自分の調律師を入れることができたこのホールをご使用されていました。また、協奏曲を演奏するからには最終的にはオーケストラとの共演があたりまえと考えられ、東京交響楽団との「ピアノ協奏曲の夕べ」という演奏会を度々企画されました。

 

私も高校時代から東京交響楽団と協演をするという貴重な機会をいただき、岸川先生の「協奏曲の夕べ」には連続3回、出演させてもらいました。長い間、岸川先生の指導姿勢を目にしていたことから、揺るぎない教育理念を持つことの重要性を強く感じていました。

 

 

【自分の進路決定まで】

 

実は私は幼い頃から「小学校の教師になりたい」という夢を抱いていました。ピアノが好きでもその道に進むことは一切考えていませんでした。しかし、高校生になり、岸川先生の教室から海外の大学に留学する生徒が増えてきて、その状況に少しずつ感化されるようになりました。一方で英語での勉学や生活は非常に困難であり、挫折した場合のリスクも考えなければなりませんでした。高校担任やピアノの先生に相談した結果、ひとまず日本の大学に進学したほうがいいだろう、という結論になりました。 そのため、私は玉川大学教育学部の小学校専攻に進学し小学校の教職を取りながら、同時に自分自身のピアノ演奏やピアノ指導法、英語の学習など、留学のための準備期間を過ごしました。

 

 

【アメリカの恩師、マリアン=コバート先生】

 

研鑽が実を結び、私は玉川大学を卒業後、アメリカのニューヨーク州にあるイサカ大学の音楽学部ピアノ演奏科に「額時免除の奨学特待生」として大学3年生というレベルで学士入学することができました。

 

この大学で指導の担当教授であるマリアン・コバート先生との出会いは、私の留学生活において非常に重要なものでした。 コバート先生は驚異的な技巧を持ち、どんな難曲でも初見で美しく演奏することができました。その技術力はコバート先生の恩師がフランツ・リストの孫弟子であったことも関係していました。彼女は個性的で情に情熱的で、素晴らしい先生でした。在学中は私の先生件母親のような存在でした。そして、コバート先生に出会った瞬間から私の奏法に大きな変革が始まりました。

 

それまで乱暴な演奏スタイルやタッチでピアノを弾いていた私の演奏は、コバート先生の熱心な指導によって驚くほどの勢いで変化していきました。細かいニュアンスにも注目しながら、時代や作品、作曲家に応じて音色を変える方法や、演奏をより楽にするための打鍵方法などを惜しまず教えてもらいました。鍵盤を押す速さなど、これまで考えもしなかったことも多く教えられ、日々新たな刺激を受けました。先生のレッスンを録音し、繰り返し何度も聞いて復習をしました。初めての学期末の演奏テストでは、先生も驚くほどに私の演奏が変わっていたことを自分でもよく覚えています。留学1年目には長い間謎だった「音色の作り方」「タッチ」などの奏法について解決の糸口をつかみ始めていました。現在私はコバート先生が私に教えてくれたように、年齢問わず、この奏法を生徒さん達に熱く伝承しています。

 

 

【ダルクローズリトミックでの体感】

 

留学先のIthaca Collegeは、エミールジャック=ダルクローズリトミックの国際免許を取得できる認定校でもありました。Ithaca College音楽学部の全生徒は2年間、毎週2時間のダルクローズリトミックの授業(ソルフェージュと動き)が必修でした。アメリカ人はピアノのスタート年齢が遅いためか、ほとんどの音大生は絶対音感が付いていないのが現状でした。ドレミ唱が苦手な人が多い中で、それが得意だった私は在学中常に特待生クラスに入ることができ、教授たちにも目をかけてもらいました。そのお陰でディプロマという一番高い水準を持った先生たちから密にレッスンを受けることができました。その時に出会った恩師がジャック=スティーブンソン先生で、ダルクローズを学んでいる方ならほぼご存じでしょう。彼とは今もダルクローズ国際大会などでお会いする機会があり、訪日の際はレッスンなどの同時通訳をさせていただいています。

 

ダルクローズリトミックを学習したことで、音楽を奏でる際の自分の身体の筋肉感覚やその記憶、空間把握が変わったことは驚くべき大きな発見と認識でした。複雑なリズムも自分が動きを通して体感した後では演奏や感覚が大きく違いました。この時初めて感じた不思議な身体感覚を後々の自分の指導にも取り入れたいと思い、帰国後ダルクローズリトミックのレッスンをディプロマ保持者の馬淵明彦先生から現在も仲間たちと一緒にご指導を賜っています。

 

 

【スズキメソードとの出会いと語学への挫折】

 

当時大学院の授業の中で、スズキメソードの指導資格が取れる2年コースがありました。日本人だからという理由から大学のアドバイザーに勧められ受講することになりました。1年目はスズキメソードの講義、そして2年目は実際に地元の生徒の指導実習を始めるという2年間の課程でした。

 

子供に指導をする上で言語の表現力や単語数はとっても重要です。外国人の私は日々苦闘していました。授業や生活に必要な英語はできるようになってきたものの、いざ教育現場で子どもを相手に外国語で言語を操ることは本当に大変でした。留学2年目は、自分の英語力不足という大きな壁にぶち当たっていました。

 

 

【新たな指導チャレンジ】

 

名誉賞付きでIthaca Collegeを卒業した後もコバート先生の元で教えを受けたいと願い、そのまま同じ学校の大学院に進学しました。大学院生はたいていティーチングアシスタント(教授助手)という仕事をいただき、その収入を学費に回すことができます。私も「クラスピアノ」という授業を毎学期5,6クラス受け持つことになりました。この授業はピアノ科ではない音楽専攻生徒や音楽学部ではない生徒のクラスで、電子ピアノが8台くらいおいてある部屋でのグループレッスンでした。その頃既にはアメリカ滞在は3年目だったので英語でのコミュニケーション自体はそれほど大変ではなかったのですが、初めてのグループレッスン、それも子ども相手ではなく大学生。これは結構なプレッシャーでした。よく言葉が詰まり生徒に逆に教えてもらったり、フンと鼻で笑われたり・・・。指導内容を監修してくれる教授がヘルプでいたのが幸いでした。この時も本当に毎回が試行錯誤で、反省と挫折の繰り返しの日々でした。毎日睡眠不足で気持ちの余裕も全くなく、非常に苦しかったことを今でも覚えています。

 

 

【非常勤講師への道】

 

優秀特別賞付きで大学院を卒業。Ithaca Collegeからの誘いで、今度は非常勤講師として「グループピアノクラス」の教鞭を継続することになりました。大学院時代に試行錯誤しながら頑張ったことが認められたことは非常に喜びにつながりました。同時に大学専属のピアノ伴奏者として、音楽学部の多くの楽器や声楽科の生徒のリサイタル伴奏、コンクール伴奏などをすることになりました。昔から常に譜読みが苦手な私は、ここでさらに苦しい時間を過ごすことになってしまいました。譜読みが早かったらどんなに楽だったか・・・と、思ったことは数知れなくありました。あまりのストレスから時折胃炎になったり、悪夢を見たりすることもよくありました。当時は本当に苦しい日々でしたが、この辛かった経験があったからこそ、今自分がどのようにピアノの導入指導をしたいのか悟ったように感じています。

 

 

【SAPS:櫻井あづさピアノスタジオの設立】

 

1993年結婚を機に帰国し、現在の東京都中野区新中野にて教室を設立しました。帰国後すぐに2,3人の生徒を教えるようになり、その一握りの生徒でスタートした自分の教室の生徒にドイツ音名で指導法を始めました。自分の2人の娘は恩師岸川先生に指導法を施していただき、絶対音感教育を施してもらいながら私も先生から多くの学びの時間をいただきました。その素晴らしい指導法のお陰で多くの生徒が立派に育ってくれましたが、徐々に世の中がキャリア志向に変わり教室に通う生徒の環境も少しずつ変化し始めました。次第に環境とご家庭の理解とサポートの違いから、上手くなる子と伸び悩む子の両方が現れ始めました。私が自分の指導に疑問を感じ始めたのもその頃でした。

 

ある時、私にとってかなり「チャレンジの生徒」が入会してきました。何とかしなければいけないという母性愛から、色々な新しい指導法を学ぶきっかけとなりました。これを機に同じ悩みを持つ多くのピアノ指導者仲間に出会い、現在私が実践している「ミュージックキーピアノ指導法」に出会えました。この勉強会仲間は本当に同じ悩みを分かち合える、心から信頼できる仲間たちばかりで、今も勉強会等で貴重な学びの時間と刺激を共有しています。

 

 

【新渡戸文化学園(旧東京文化学園)との関わり】

 

 新渡戸文化学園(旧東京文化学園)のアフタースクールが開設されてから、私はここの学校と子ども園で12年間、ピアノの個別指導やグループピアノの指導を行ってきました。

 

この学校は私の2人の娘の母校でもあり、娘達が幼稚園と小学校に通っていた期間、合計12年間、幼稚園の母の会の行事や父母会、聖書の会などでピアノのお手伝いをしていました。娘達の在籍中は父母会のクラス役員やPTA副会長、PTA総書記などを務め、多くのお母様方や先生方との交流を持つことができました。その中で、子育てに悩む母親たちや子ども中心の保護者、受験期の親子の葛藤など、ピアノ以外の人間関係や心理についても多く学ぶ機会がありました。成功するための親子の悩みや問題は、私自身の経験からも共感することが多くありました。現在生徒やご家庭、指導者の様々な悩みにアドバイスができるのは、自分自身の子育て経験から学んだことが大きく関与していると思います。老若男女の様々なタイプの方々に出会えたことは、私の人間力アップにかなりつながっています。

 

2009年にこの学校は「母親のキャリアをサポートする支援学校」に転換し、それに伴い放課後の教育をサポートする「アフタースクール」という教育機関が設立されました。 当時では私立小学校の「アフタースクール」の設立は非常に珍しく、全国から多くの見学者が訪れていました。特に放課後の学校機関で「ピアノ」のような個別の芸術的な習い事が行われることはとても珍しく、メディアでもよく取り上げられ、私自身もテレビに出演する機会が度々ありました。

 

生徒の確保が難しいピアノの先生が多い中、アフタースクールでのピアノレッスンの応募率は毎年30倍くらいでした。子供のピアノへの興味からだけでなく、楽譜を読めるようにさせたい、音楽に触れさせたいという願いが保護者の中にあると感じました。私もピアノ音楽の楽しさや表現力の重要性を子どもに伝えたいと思い、こどもの音楽の世界を広げていきたいという強い思いがありました。

 

そのアフタースクールでのピアノレッスンは、「習い事」の行く末を予測することができるもので、現在の私の指導や考え方に影響をもたらしています。忙しい子供たちにとっても一瞬の音楽体験は楽しむことができる機会でもありました。音楽は独自の創造性や感情表現を豊かにする力を持っていますので、活動をすることで子どもたちは自己表現や集中力の向上、協調性の育成など多くのメリットを得ることができます。そこでは、子供たちと一緒に私も沢山の学びがあり、子ども達がレッスンを受けながら成長していく姿を見ることは、私にとっても嬉しい時間でした。

 

 

【今と今後のミッション】後のミッション】

 

現在、私の生徒はほとんど共働きの家庭で育っています。親が仕事をしている間、子ども達は保育園や学童、アフタースクール、塾などで過ごしています。また、親たちも日々の生活が忙しく、ピアノに関する手伝いやお願いなどは難しい状況です。現代の状況を考えた時昔の習い事や私の時代のピアノレッスンの形では、「習い事」が成り立たないのが現実です。私自身も生徒の限られた時間の中で、効率的かつ効果的、そして楽しい指導法を日々考えながら、多くの試みを繰り返してきました。そして、ようやく現在のレッスンスタイルにたどりつきました。

 

コロナ禍の中でも、最初からオンラインレッスンを導入していたおかげで、生徒の指導を中断することなく、またオーディオインターフェイスの使用でワンランク上のオンラインレッスンを続けることができました。

 

「自己肯定感や集中力の向上」「効果的な指導法」「家での練習をサポートするピアノ術」「オンラインレッスン」など様々なアイディアやキーワードが飛び交う日常の中で、日々私は生徒たちの変化やニーズを考慮した、興味を引く教材研究や学習資料を作成しています。生徒の環境が変わっていている以上、ピアノ教室も時代の流れに合わせて少しずつ進化する必要があると感じているからです。

 

 

  

Jess&AZ演奏 

2019年7月

協奏曲の夕べ、1981年

ピアノソロ演奏、

東京交響楽団共演

「コンツェルトシュトゥック」

ウェーバー作曲

米国NY州、Ithaca College,  

Mary Ann Covert

メモリアルコンサート演奏 

2019年9月

協奏曲の夕べ、1988年

ピアノソロ演奏、

東京交響楽団共演

「変奏曲的協奏曲」

フランク作曲

Jess&AZ

増上寺明徳幼稚園

全園児コンサート演奏

2020年2月

新渡戸文化学園アフタースクール

ピアノレッスン放映

TBS「いっぷく」